当時の江戸のごみは、現在のごみのような、生ごみ、木切れ、使い捨てた紙や被服類、様々な容器類とは違って、瓦や土砂、瓦牒などが主であったろうと推定される。というのは、生ごみはほとんどが牛馬の餌になっていたと考えられ、木材は燃料として使われ、使った紙は溶かして漉き替えた上で何度も紙として使われただろうし、古鉄や古着、古道具なども修理して再使用・再利用されていたと思われるからである。ちなみに、当時の江戸の町には、紙くず買い・古鉄買い・古着屋・古道具屋などの商売が立派に成り立っており、資源の回収・再生が庶民生活に密着した存在であったと思われる。永代島が、幕府によってごみ捨て場に指定され、江戸市中から出たごみを船で運んで埋め立てるようになってから、二六年が経過した後の一八八一(延宝九)年、幕府は永代島新田と砂村新田(現在の江東区永代町・東砂町)を、次のごみ捨て場に指定した。なお、幕府が次のごみ捨場を新田と呼んだからには、ごみを埋め立ててできた土地を新しい耕作地、つまり新田にする計画であったと思われるが、実際にはこれらのごみ捨場で埋め立てが終わった後は、新田は耕作地にはならずに、そこに武家屋敷や町屋が建てられて、城下町の拡張につながっていったと見られている。昭和から平成にかけて、ごみで埋め立てられた東京湾の埋立地に、現在はアパートやビルが林立しているのと同じことである。